岐阜ゆかりの戦国武将たち

関ケ原の戦い関ケ原の戦い

秀吉亡き後に勃発した天下分け目の戦い「関ケ原の戦い」

1600年、徳川家康を大将とする東軍、石田三成が率いる西軍が、天下の主導権をめぐり衝突した関ケ原の戦い。豊臣秀吉の死後、三成を中心にした五奉行と家康率いる五大老の2つのグループによって政治が行われました。家康は、有力な武将たちと政略結婚を繰り返し、秀吉の親戚で戦いが得意だった加藤清正や福島正則といった武断派と、三成や大谷吉継ら文治派の対立を利用し、自分の味方を増やしながら天下統一に動き出しました。一方、三成は上杉景勝征伐のために会津へ出陣して、家康が大阪城を不在にしたことをきっかけに挙兵。五大老の毛利輝元を総大将とし、宇喜多秀家らを味方に引き入れました。その情報を得た家康は、上杉征伐を中止して畿内を目指すことに。この両軍が対峙したのが、東西交通の要地であった関ヶ原でした。東軍約7万4000人に対して西軍は約8万4000人。先に到着していた西軍がやや優勢でしたが、小早川秀秋による裏切り、毛利家を中心とした西軍の主力部隊が戦いに参加しなかったため、次第に不利な状況に追い込まれます。その後、勢いを増した徳川軍によって総崩れとなり、わずか1日で東軍の勝利が決まりました。

岐阜城

生誕地について岐阜に多くの伝説が残る明智光秀

2020年の大河ドラマに決まった『麒麟がくる』は、戦国時代の英傑たちの活躍を描く群像劇です。この中心的人物である明智光秀は一説によると1528年、現在の岐阜県に生まれたとも言われています。当初は斉藤道三に仕えましたが、道三亡き後は浪人となり各地を転々とします。そして織田信長に出会い、光秀は比叡山延暦寺焼き討ちや長篠の戦いなどの戦に加わり、政治の面でも活躍して破竹の勢いで出世。しかし、1582年に信長を本能寺で襲い、わずか十数日後に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れたのです。諸説がありますが、光秀の生誕の地として伝わり、落城するまでの約30年間を過ごしたのが、岐阜県可児市にある明智城。若き日には、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。岐阜県可児市の天龍寺には明智氏歴代の墓所があり、本堂には184センチもの光秀公の位牌がそびえています。

岐阜城

美濃の戦国領主として街づくりにも着手した齋藤道三

「美濃のマムシ」の異名を持つ斎藤道三は、父との親子2代で戦国大名となった下剋上の代名詞と言われる人物。守護の弟・土岐頼芸の信頼を得て頭角を現します。1527年にはクーデターを起こして、頼芸は美濃の大名となり、斎藤道三も土岐家の一番の家臣になりました。その後、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政が対立。1542年に利政は頼芸の居城・大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放しました。巧みな外交から美濃の領主へとのぼりつめた道三は、1554年まで君臨。城下・井の口を次の時代にふさわしい都市にするために街道を整備し、楽市楽座などを実行して美濃の商業的な発展に貢献しました。

織田信長

岐阜城を拠点に天下統一を目指した織田信長

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」という歌に詠まれているように、織田信長は領土拡大にしのぎを削った戦乱の時代を大きく転換させ、天下統一の最初のステップを踏みました。尾張で生まれた信長が美濃に移り住んだのは、斎藤道三の娘である濃姫との婚姻がきっかけ。道三は敵対していた信秀と同盟を結ぶと同時に、信長を高く評価しました。しかし、道三の跡取り息子である義龍との関係が悪化。長良川の戦いで道三が討ち死にした後、信長は美濃に侵攻して、斎藤家の居城・稲葉山城を落城。この地に念願の岐阜城を築き、美濃を支配し続けました。戦国時代のヒーローとして有名ですが、楽市楽座政策や関所撤廃、兵農分離、身分に捉われない人材登用などの偉業を次々と成し遂げ、美濃にとどまらず、日本経済に風穴を開けて大きく発展をさせたのです。

高山古い町並み

飛騨高山と美濃の町並みをつくった金森長近

争いが絶えなかった美濃から近江野洲郡の金森へ移住。18歳のときに近江を離れ、尾張の織田信秀に仕えた金森長近。前田利家らとともに赤母衣衆と呼ばれる精鋭部隊に抜擢され、桶狭間の戦いで功績を上げた際、信長の「長」の字を与えられ名を「長近」と改めました。1585年には飛騨の三木氏を滅ぼし、飛騨一国を与えられて高山城を築城。同時に京都の町並みを模した碁盤目状の城下町をつくり、社寺を建立しました。関ケ原の戦いでは、東軍の徳川家康方について戦い、戦後は飛騨高山の初代藩主となり、美濃に小倉山城を築いて移住。当時に手がけた城下町・上有知は、うだつの上がる町並みとして現存し、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

全国屈指の山城 岐阜県東美濃に残る

東美濃の山城

東美濃の山城とは

日本列島のほぼ真ん中に位置する岐阜県は、関ヶ原の戦いをはじめとする歴史上重要な合戦が繰り広げられてきた日本の要所として、古くから発展してきました。なかでも飛騨山脈や木曽山脈に囲まれ、青く澄んだ木曽川が脈々と流れる東美濃は、全国屈指の山城が数多く点在するエリアとして有名です。特に日本100名城・続100名城である岩村城跡と岩村城下町、苗木城跡、美濃金山城跡の3つの城は、次世代へと語り継いでいきたい「岐阜の宝もの」に認定。周辺には、中山道をはじめ江戸時代の面影が色濃く残る懐かしい街並みなどの名所の数々や、地歌舞伎等の文化、陶磁器等の産業が息づき、人気の観光スポットとして国内外から注目を集めています

苗木城跡

巨岩の上に造られた石垣と絶景が魅力「苗木城跡」

天空の城と呼ばれる苗木城は、木曽川の右岸にそびえる432mの城山に築かれた山城。頂上に設けられた天守跡の展望台からの景色は、中津川のシンボルである恵那山、眼下には木曽川や街並みを一望できる大パノラマが広がり、2018年には『日本の城ベストランキング』(晋遊舎発行)の「絶景!山城ベスト10」で1位に輝きました。注目は、巨大な自然岩の上に造られた独特な構造の石垣。時代によって積み方が異なる6つの技法が見どころです。苗木遠山資料館には詳しいパンフレットがあり、城跡を案内するガイドの受付も行っています。

美濃金山城跡

本能寺の変で討たれた森蘭丸誕生の城「美濃金山城跡」

1537年、斎藤正義が烏峰城として築城したのがはじまり。その後、久々利城主の土岐氏に謀殺され落城し、織田信長が森可成に城を与えた際、金山城に改名して総石垣造りの近世山城へと大改修されました。35年にわたり森家が城主を務め、信長とともに本能寺で討たれた森蘭丸はこの城で生誕したと言われています。標高276mの古城山の山頂に主郭を設け、その東・南・西に続く尾根筋に曲輪群を配し、北麓部には米蔵跡と伝わる曲輪が現存する見どころ満載の山城です。

岩村城跡

東洋のマチュピチュと呼ばれる壮大な城「岩村城跡」

本丸の標高は717mと江戸諸藩の府城の中でも最も高い場所に築かれた岩村城は、奈良の高取城、備中松山城に並ぶ日本三大山城のひとつ。高低差180mの険しい地勢を利用した要害堅固な山城は、遺跡を思わせる壮大な造りで「東洋のマチュピチュ」と呼ばれるほど。このような地形にそびえる岩村城は落城が難しく、1185年に源頼朝の重臣である加藤景廉の創築から800余年にわたり存続しました。さらに重要伝統的建造物群保存地区に選定された歴史の町並みや数多くの旧跡を有する岩村城下町も情緒あふれる人気の観光スポットです。

今なお当時の面影を残す岐阜の名城

大垣まつり

4層の天守と化石のある石垣が珍しい「大垣城」

JR大垣駅から南に700mほどに位置する大垣城は、全国的にも珍しいな4層4階の天守を持つ大垣市のシンボル的存在。かつては水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地は現在の3倍以上、櫓の数は10を数える大規模な要塞だったと言われています。その歴史は1535年、美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により創建されたと伝えられ、関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで守り続けられ、戦前には国宝指定を受けましたが、1945年の戦災で焼失。1959年に天守が再建され、今では自然豊かな公園も整う憩いのスポットとして親しまれています。そんな大垣城の見どころは、石灰岩を使った野積みの見事な石垣です。ほとんどは、大垣城から北西約4kmの金生山から採掘された石ですが、金生山は2億5000万年前に地殻変動で海底が隆起してできた山。石垣のあちこちで化石を発見できる非常に珍しいお城です。

岐阜城

天下統一のロマンを描いた信長の本拠地「岐阜城」

かつて稲葉山城と称していた岐阜城。金華山山頂にはじめて城を築いたのは、二階堂山城行政と伝えられ、戦国時代には斎藤道三の居城でもありました。この、岐阜城の名を天下に知らしめたのは織田信長です。1567年、この地方一帯を平定した際に、岐阜城と改名して新たな城を築くとともに地名を「井の口」から「岐阜」に改名しました。しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦で信長の孫・秀信が西軍の味方につき、東軍に攻め入られて落城。現在の城は1956年、岐阜城再建期成同盟によって復興されたものです。城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれ、金華山一帯は2011年に国史跡に指定されました。標高329mに築城された城郭の最上階からは、恵那山や木曽御岳山、乗鞍、日本アルプスなどの山系が連なり、木曽川の流れが伊勢湾に注ぐ壮大な眺望を望むことができます。当時、信長もこの風景を見ながら天下統一を目指したことでしょう。

郡上八幡城・町並み

日本最古の木造再建築城としても有名な「郡上八幡城」

長良川の上流に位置する郡上八幡は、夜を徹して開催される郡上おどりが夏の風物詩として有名。職人町、鍛冶屋町などの歴史を感じさせる町名の町並みには風情溢れる城下町が広がっています。この地に城を築いたのは、初代城主の遠藤盛数。戦国時代末期の1559年にさかのぼります。その後、6代城主の遠藤常友の修復により、幕府から城郭として格上げされ、城主は井上氏や金森氏を経て1758年からは青山氏が代々受け継ぎ、4万8000石を領して明治に至りました。廃藩置県により城は石垣を残して取り壊されましたが、1933年には天守閣が木造で再建。木造再建城としては日本最古で、現在の城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に、天守閣は市の重要文化財に指定されています。天守閣からは、城下町や奥美濃の山並みが一望でき、紅葉シーズンのライトアップでは幻想的な雰囲気を醸し出しています。